【コラム】ガラアキ電車を満員に-小林一三と私鉄経営のビジネスモデル

公共交通の事業はビジネスかインフラか?

 コロナ前の状況ですが、2018年度の我が国の路線バス事業者・地域鉄道事業者の約7割が赤字になっています(図:国土交通省の資料より)。運賃収入で運行経費をまかなって事業を継続するということが公共交通においては,かなり厳しい状況にあることはあきらかです。

図 路線バスと地域鉄道事業者の赤字割合(2018年度)国土交通省資料

 下の表に見るように、欧米の都市鉄道では運行費用を運賃収入だけでまかなっているケースはほとんどなく(ロンドンのみが100を越えており黒字)、運賃収入で不足する部分は行政が補助金などを充当することで運行が行われています。これは、公共交通が地域を支える「インフラ」と認識されているからです。

 一方、我が国では鉄道会社・バス会社は運行に必要な経費を運賃収入から得て事業を継続する「ビジネス」であると考えられています(実際には、7割の会社が赤字ですが…)。

 欧米と我が国の違いはどうしてできたのでしょうか?

 それは、我が国の公共交通事業が,社会の近代化の風を適切に把握してビジネスとして形成されてきたからです。そのビジネスモデルを構築したのが、現在の阪急電鉄の経営基盤を創り上げた小林一三(1873年-1957年)でした。

ガラアキ電車を満員に-小林一三の情熱

 小林一三は1910(明治43)年に開通した箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線。以下、阪急電鉄という)の実質的な経営責任者でした。当時,この路線は沿線に目立った観光地も大きな集落もない大阪近郊の農村地帯であり、乗客が期待できないと思われていました。

 しかし、集落がないのであれば創り出せば良いのではないかと考えて、その当時世界的に注目されていた英国生まれの田園都市の発想を取り入れた郊外住宅地を開発して鉄道開通と同時に大規模に分譲をはじめたのです。鉄道からの運賃収入と、沿線の住宅地販売の収入の両輪で事業の成立を目指したのです。住宅地開発は、不動産事業の収入だけでなく沿線に居住する人口の増加も期待できます。人口の増加による鉄道利用者の増加も意図したものでした。今では常識のようなことですが、我が国で最初にこの仕組みを考え、実施したのが小林一三でした。

 なお,1990年代のアメリカで注目された都市計画思想にTOD(Transit-Oriented Development)があります。これは自動車に依存せず公共交通を中心として都市開発をめざすものです。そのTODが提唱される80年も前に、民間資本でこうした都市開発に取り組んだことになります。

 さらに、沿線おいて外出の目的地になる遊園地(1911年、宝塚新温泉開設)の設置、宝塚歌劇(1914年初公演)を含む様々なアトラクションの実施によって、鉄道の利用者増加を創り出しています。利用者が増加すると鉄道の運輸収入も増加して、経営基盤が強化されていきます。

 これらの工夫によって利用者が増加していきました。当然、大阪市の玄関口に当たる梅田駅を通る人々も増加します。そこで梅田駅に阪急百貨店(1929年)を開設し、沿線の鉄道利用者の利便性を高めるとともに事業の拡大を図っていきます。鉄道ターミナルに百貨店を開設することも、我が国では初めての試みでした。

 また、阪急神戸線の大阪市と神戸市の中間の位置となる西宮市内へ学校の移転に協力しています。1929年には関西学院が神戸市内の原田の森から西宮市上ケ原へ、1934年には神戸女学院が神戸市内山本通から西宮市岡田山の移転に協力しています。これは鉄道の利用が朝の通勤時には大阪向きに集中するので、大阪からは逆方向の利用者を得ることが可能となります。運行費用は変わらずに利用者の増加になります。もちろん、それぞれの学校にとっても、新しく広いキャンパスが確保でき、通学の学生は満員電車に乗らなくても良いということで双方に利点があるものです。

 様々な事業の展開によって、阪急電鉄の経営は安定し優良な企業となっていったのです。

 1920年に阪急電鉄神戸線が開通した時の新聞広告には「新しく開通した神戸ゆきの急行電車、綺麗で早うて。ガラアキで眺めの素敵によい涼しい電車」(1920年)というコピーがあります。

 沿線に住宅地がないので、ガラアキで涼しい電車だったことは想像が可能です。

 このガラアキを何とかして、満員にして経営を成立させるために小林一三は様々な事業の実施に情熱を燃やしたのです。

日本の私鉄経営のビジネスモデル

 こうした小林一三による阪急電鉄の多様な事業展開は、他の私鉄にも取り入れられることになりました。全国の各地において私鉄は地域の優良な企業として成立することになったのです。

 私鉄はバス、タクシーなどの交通手段だけでなく、沿線の住宅地開発などの不動産業、駅前の商業やオフィスに関わる事業、そしてエンターテインメント事業など多様なビジネスを展開することで、人々の生活文化=ライフスタイルを形成してきたことになります。民業としてサービス向上に切磋琢磨を行い、利用者を獲得して収入を獲得することが可能となりました。

 明治最後期に誕生したこのビジネスモデルは、都市に人口が集中し続けた近年まで成果をあげて来ました。しかし、さすがに100年経つと、このビジネスモデルは、沿線における住宅地開発の適地の減少や自動車との競合などにより賞味期限を迎えつつあります。

 しかし、人々の生活や文化・ビジネスなど多様な活動を支えるために、移動手段を提供するという我が国の私鉄のビジネスモデルの発想は現在も活きていると思います。チケットをICカード化して乗降の利便性を向上するだけでなく、ICカードの決済システムを活用して商業施設などでも利用が可能となること、複数の事業者間でのシームレスな利用ができることなども「ガラアキ電車を満員に」したいと考えて多様な事業の展開を行った小林一三のDNAがあるのだと思います。

 コロナ禍の公共交通の経営モデルは、新たな方策を考える時代を迎えたのかも知れませんが、小林一三の「ガラアキ電車を満員に」という発想と情熱を我々も受け継ぐ必要があるのだと思います。

小林一三とまちづくりについてもっと知りたい方は

・土井勉:「1910年のTOD-関西における都市鉄道のビジネスモデルの確立と発展」,日本都市計画学会,「都市計画」通巻346号、pp.30-33, 2020年9月.

・土井勉:「民間鉄道と都市開発の統合スキーム-小林一三モデルの誕生と進化-」,土木学会誌第106巻第2号,pp.62-63,2021年2月.

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